益子焼と益子町の発展
益子町は、江戸時代末期より、鉢、水瓶、土瓶などの日用の道具を作り、東京に近く鬼怒川で荷物を運べることから、焼き物の産地として発展してきました。
1924年濱田庄司氏が移住し、『用の美』に着目した柳宗悦氏らと共に民藝運動を進めるかたわら、地元の陶工たちに大きな影響を与え『芸術品』としての側面を持つようになります。
現在では、350もの窯がある一大産地となり、多種多様な作風の益子焼がお客様を楽しませています。
民藝協会について
『民藝』は大正末期に柳宗悦氏・河井寛治郎氏・濱田庄司氏らが唱えた「民衆的工藝」からの造語です。昭和初期に民藝運動を普及するために日本民藝協会を設立し、東京 駒場に「日本民藝館」を開館しました。栃木県民藝協会は1943年に「日本民藝協会栃木県支部」として発足し、シンポジウムや展示会等を開催。1999年より「有限会社 陶庫」が事務局を務めています。
陶庫の理念
“やきものの町「益子」に於いて、益子焼の歴史ややきものの概念等を踏まえた上で、人間がつくりだす物体の存在意義や方向性を模索し、そのなかから物質的でなく、精神的、健康的、普遍的な 「真の豊かさ」を模索する
そのことにより、益子という地方都市のあらゆる面の文化の担い手の一役を買う”
陶庫のはじまり
「陶庫」の起源は、明治時代の半ばに呉服商として益子町内に開業した「塚本菊次郎商店」にあります。 創業者の塚本菊次郎は、昭和初期に現在の益子町城内坂で肥料商を始めました。 しかし、農業の衰退、減反政策等により米蔵として使用していた大谷石蔵の利用頻度が低くなり、その用途を模索していました。
塚本菊次郎商店では肥料商を営む傍らで、焼き物の柿釉の原料として使用される芦沼石(赤粉)を全国に販売していました。柿釉の保温性があり、浸透しにくいという特性から、東北地方の屋根瓦の材料としての需要が高まり、昭和45年頃まで販売を行いました。
芦沼石(赤粉)を全国に販売することに付随し、益子焼の原材料も多く販売をしたことから、次第に窯業産業との関りが深くなっていきました。 昭和40年前半からの民藝ブーム等により益子町には多くの観光客が訪れ、活気に満ちたことをきっかけに大谷石蔵を改装し、昭和49年10月に益子焼の販売店として「陶庫」を開店しました。