【TOKO CLUB EVENTS】岩見晋介/樽見浩 ギャラリートークを開催しました。
「岩見晋介展 穴窯20年」「樽見浩展」の開催に伴い、2024年4月7日にギャラリートークを開催いたしました。
二人の陶芸家と陶庫代表取締役社長「塚本 倫行」のトークセッションの内容をお届けいたします。
岩見晋介
1964年 東京都に生まれる
1989年 多摩美術大学絵画科卒業
1995年 益子へ入り、中山博司氏に師事
1996年 長谷川製陶所にて修行
1998年 益子町山本に独立
2002年 穴窯築窯
2007年 カンボジア伝統陶器復興プロジェクト(〜2015年)
2016年 ボーンホルム島にて 原料採取・作陶プロジェクト (〜2022年)
樽見浩
1972年 東京都に生まれる
1992年 文化学院芸術専問学校陶磁科卒/笠間小林製陶勤務
1995年 沖縄渡嘉敷島にて従軍慰安婦慰霊 モニュメント製作参加
1997年 山形県南陽市に築窯独立
-益子で陶芸の道へ-
塚本
「TOKO CLUB EVENTS|岩見晋介/樽見浩ギャラリートークを始めます。今回のギャラリートークでは、お二人の活動や作陶への思いなどを伺っていきたいと思います。
まず初めに、出会いから。僕が初めて岩見さんとお会いしたのが1999年の益子陶芸美術館で行った、韓国人の陶工「イ・カンヒョ」「ゼン・ムンファン」のワークショップでした。
益子陶芸美術館の濱田庄司邸に大きな壺が飾られていますが、それがイ・カンヒョの作品です。
そして、ミニギャラリーに人形のようなオブジェがありますが、それがゼン・ムンファンの作品です。そのとき岩見さんがお手伝いでいらっしゃって出会いました。
樽見さんとは、2000年に佐久間藤太郎窯の登り窯を焚く「陶のもののふ六人衆」という展覧会を陶庫で開催してそこで出会いました。
樽見さんは山形にいらっしゃいましたが、作家のつながりから紹介してもらいました。
岩見さんと樽見さんの出会いはそのあとですよね?
岩見
どっちなんだろう。笑
塚本
岩見さんと樽見さんは年は7つ違いますよね?
樽見
そうですね。
岩見
でも、独立したのはほとんど同じくらいです。
塚本
益子で開催された韓国のワークショップをきっかけに、韓国でも陶芸のワークショップが開かれました。その後の岩見さんの活動につながる色々な方と出会ったんですよね。
岩見
そうですね。樽見くんが良く知っている、伊集院真理子(いじゅういん まりこ)さんという陶芸家の方ですとか、あとはその後に僕が海外に行くようなきっかけになるゲイリーさんと韓国でお会いして、そこからいろんな展開をしていきました。
塚本
樽見さんは伊集院真理子さんとの関わりで沖縄との出会いがありましたよね。
樽見
僕は文化学院芸術専問学校の陶磁科に通っていました。学校の一つ上の先輩が、伊集院さんのところに勤めていて、その先輩からの紹介で伊集院さんのところに行くようになりました。
塚本
それで伊集院さんと一緒に沖縄の方に?
樽見
そうですね。そのあと文化学院を卒業して、今はもうないのですが、笠間市の小林製陶所というところに3年ほど勤めました。
そのときに伊集院さんが沖縄にモニュメントをつくる計画にお誘いを頂いたことをきっかけに退職して沖縄にわたりました。
塚本
それが1995年ですね。
それは従軍慰安婦のモニュメントだったんですよね?
樽見
従軍慰安婦の碑を渡嘉敷島でモニュメントとして作りました。島の土を掘って、その土で分厚いレンガというかタイルをつくって、立体のモニュメントと舞台をタイルで作りました。
出典:NPO法人沖縄恨(ハン)之碑の会
塚本
原土を掘ったのはそれが最初ですか?
樽見
はい。最初に原土を掘る経験をしたのは渡嘉敷の山でした。ちょうど道を作る道路工事で出た粘土をもらって、自分たちで穴窯を作りました。
塚本
モニュメントは大きいんですか?
樽見
陶庫の敷地くらいの面積なので広くて大きいですね。
広い敷地の中に急にタイルの立体物が現れたり、点々と舞台があったり。
塚本
それから山形の方に、移住したんですか?
樽見
そうです。僕が沖縄に行ってるときにちょっと母親が体調崩して、そのときは厚木の実家で生活していましたが、山形が母親の実家で、将来は山形に住もうと考えていました。
そのことから山形で手術をする機会に山形へ移住しました。
塚本
1997年ですね。その頃、岩見さんは、益子の製陶所にいましたね。
岩見
そうですね。ちょうど長谷川製陶に勤めてた頃ですね。
塚本
何年間?
岩見
長谷川製陶は3年しかいないですね。その前に中山さんという方のところで1年間ろくろをやっていました。
塚本
元々岩見さんは、多摩美術大学の油絵専攻ですよね?焼物にはなぜ?
岩見
はい。焼物を仕事にしようと思ったことは、大人になるまでありませんでした。
ただ、小学校のときに、卒業アルバムに陶芸家になるって書いたことがあって。陶芸家になって信楽や志野で焼くとか、わけのわからないことを書いていたんですけど。笑
その当時は母親から小さい日本の焼物みたいな本を見せられて、それも焼物屋っていうのは山の中で薪で窯を焚いて、何ヶ月かに一回しか里に降りてこなくて、みたいなそんな話聞いてたら、頭の中でイメージで膨らんでいるときに、卒業文集で将来なりたいものを書きなさいと言われて、なんかワーッと勢いで書いちゃったみたいなところがあって。
そこから中学校、高校なんてもう全然その焼物屋になるということは一つも思い出しもしませんでした。
大学に行って僕は油絵を専攻して、卒業後はサラリーマンになったんですね。6年間ぐらいサラリーマン生活してたんですけど、何か物を作りたいなと思ったときに僕がよく遊びに行ってた大学の後輩でガラスを吹いてる人がいて。
そのガラスで遊ばせてもらったりしてるうちに、何か工芸的な仕事っておもしろいなと思って。そういえば、焼物屋になるんだったとか言って。笑
それで焼物を選んだ感じです。
塚本
益子で焼物屋になった理由は何かあったんですか?
岩見
益子は、うちのかみさんがその当時勤めてた会社にクリエイターの方がいて、その方の幼なじみが益子にいるから何か話聞きに行くんだったら紹介してやるぞというきっかけでした。
それで、益子にきたわけですが、その当時は焼物屋の「や」の字も知らなくて。益子といえば濱田庄司だねって言われても誰ですかそれは?っていう。笑なんで笠間じゃなくて益子なの?っていわれても笠間って?そんな状態で益子に来ました。
正直、産地はどこでも良かったんですが、東京から近かったことも大きいですね。
塚本
樽見さんはなぜ笠間に?
樽見
僕の親は大正生まれで結構高齢だったので、あんまり遠くには行けないと思っていました。
僕が勤めた小林製陶に学校の先輩の方が勤めてて、紹介で入りました。
樽見
最初は美濃とかあっちの方も考えていたんですけど。
岩見
僕と違ってね、樽見くんは焼き物をちゃんとわかってて産地を選んだ。笑
-鯉江良二との出会い-
塚本
先程の話にあった益子で開催された韓国のワークショップは愛知県常滑の陶器作家の鯉江良二(こいえ りょうじ)さんから益子でやらないかというきっかけをもらいました。そこから鯉江良二さんとの繋がりができました。
岩見
1999年の益子での韓国のワークショップのときに、彼らと知り合いました。
その後に2000年に韓国の慶煕(キョンヒ)大学で1ヶ月開催されたワークショップに参加します。大学のドミトリーにみんな泊まって、制作を行いました。そこに鯉江さんもいらっしゃったのが鯉江さんとの出会いです。
鯉江良二 氏(1938-2020)
出典:https://www.apollo-magazine.com/
塚本
あと岩見さんにとっては、2004年にワークショップでアメリカのアイオワに行かれたことも大きいと思います。
陶庫が2004年で30周年だったときに鯉江さんのアートレジデンスをやろうと企画して、鯉江さんに連絡したところ、鯉江さんはアイオワにいました。その時に岩見さんといっしょにやっていたんですよね。それで鯉江さんと2週間も相部屋だったという。
岩見
鯉江さんっていう方をご存知の方はどれだけそれが大変なことかわかると思うんですけど笑 鯉江さんはそうやって1999年から益子に度々来られてたんで、僕もよく存じ上げてて、どんなものを作る方なのかどんな人なのかもわかってたんで、僕はあんまり近寄らないでいました。
割とそういうイベントには参加してたけども、鯉江さんには関わらないように、関わらないように人の後ろから覗くようにして見てたんですね。っていうのは、彼っていうのはものすごいなんていうのかな吹き出すようなエネルギーで物を作る方で、言ってみればすごく毒もあるし、僕にとってはちょっと近寄ると何か自分が壊れそうな。
もうあまりにも影響が強すぎて自分を失いそうな怖さがあったのでもうなるべく近寄らないようにしてたんですよ。
そしたら、2000年に韓国のワークショップでであったゲイリーっていう方に誘われて、2004年にアイオワへ行くことになったんです。
ゲイリーが「悪い岩見。ちょっと部屋の数を間違えて人が足りないんだ」って言われて、「鯉江さん部屋ないんだけど、岩見1人部屋だよね?」って言うから、「やばい!」って思ったんだけど、断れないんですよ。もう部屋がないから。
それで鯉江さんと一緒の部屋になったんですね。
鯉江さんと顔合わせして、「お前はどっかで見たことあるなって」言われて、何となく顔だけは覚えてくださっていたみたいで。
でも、やっぱり関わりたくないんで、あまり一緒に部屋にいないようにして彼が入ってくると出て行くみたいな。朝も早く起きて先に出ちゃうみたいな。もうそんなことを最初やってたんですよ。
彼は同時にすごく温かい人なんですよね。自分より若い、これから来る陶芸家に何かしてやらにゃいかんだろうみたいな感じで夜な夜なレクチャーみたいなのが始まったんですよ。
岩見さんの作品
岩見
そのレクチャーを聞き始めて、初めて鯉江良二という陶芸家を認識し始めました。
僕の印象ではものすごくアバンギャルドな陶芸家で、すごく機をてらったような物を作るイメージでした。オブジェで、チェルノブイリという作品や土に還るとかいう有名な作品があるんですけどそういうふうな強い作家に映っていた。
ですけど、すごく古い焼き物、骨董とかに造詣が深いんですね。
例えば、樂吉左衞門の話をしてくれて、「あいつはすごいぞ。あいつはちょっと悔しいけど、すごい。井戸を掘るなんて言い出すんだ。あの言葉はいいな」って言うんだけど、何がいいか教えてくれないので、要するになぞかけになっちゃうわけですよ。
僕は「井戸を掘るって何だろうな」って考えていると、翌日には「通底(つうてい)の意味はわかるか?」と言われて、「何かそこで通じてやるってことですか?」って答えても、黙ってそれっきりなんですよ。
答えは言わないんです。何また考えさせられるわけです。この人は何を僕に問いかけてんだろうなって思いながら過ごしているうちにある日、「お前いくつになった?」と聞かれ、「40歳です。」と答えると一言、「遅いなあ」って言われたんです。
僕に引導を渡すようなことを言うわけですよ。またある日は、「お前何のために焼物作ってる?」と聞かれました。
僕はそのときは、もう兎に角、ろくろをしてさえいれば楽しかったんだよね。ものを作れる喜びというか、作ってることだけで嬉しくて。焼き物屋になってよかったなって本当に100%そういう気持ちで物作りしてたんで、「作ることが楽しいからです」答えたら、黙っちゃうんですよ。
この出来事が自分にとっては本当に大きくて、粘土に触れなくなってしまったんです。自分は楽しくて作ってるじゃだめなのかなって。
それで、ワークショップも適当にこなして帰ってきて、帰ってきてから3ヶ月間、一切何も作れなかったんです。
仕事場には行くんです。でも、何を作っていいかわかんない。どんな仕事をしていいかわからない。家に戻って昼飯を食べてまた仕事場に行って悩んで。それを3ヶ月間ずっと繰り返していました。作ることが苦しくて。苦しいと思ったのはその時が初めてで、今でも思い出すと込み上げてきちゃうんですけど、その何か苦しみみたいなのを与えてくれたのが鯉江さんだったので、いまでも仕事ができてると思って感謝しています。
塚本
鯉江さんという方が、益子に一番最初に来たのは1963年でした。そのときは、濱田庄司さんと島岡達三さんと加守田章二さんと、村田元さんを訪ねて来ました。ちょうど加守田さんが、穴窯をやり始めたころで、加守田さんとは世代も一番近いこともあって統合しました。あれは2001年ぐらいに鯉江さんが益子に来たとき、当時と同じコースを回ってくれないかと言われて一緒に回りました。もちろん加守田さんは亡くなっていましたが、加守田さんの奥さんとあったときは50年近くあっていないはずなのにこの前あったように話していたことが印象深いです。
塚本
鯉江さんは益子のことが嫌いだったんです。益子に陶芸家が400人も生活できること自体が益子はおかしいという考え方でした。それで益子は嫌いだったんですが、1992年に半ば強引に連れてきて、Talk in Mashikoというトークイベントを開催しました。それすらも1999年にサイド益子に来たときは忘れていたくらいで。とにかくお酒が好きで僕も、鯉江さんの家には20回以上行ったかな。
もう朝までとにかく飲んでて本当に大変なんですけど。飲んでる中でも鯉江さんは若い人からいろいろな刺激をもらったりしていました。若い人が新しいやり方で作陶していると話すと、翌朝早くに工房に行って試していたのが鯉江さんだと聞きました。
それぐらい、貪欲っていうか、作るということにストイックな方でした。
岩見
酔っ払ったらすごかったんですよ。アイオワのときに、スライドショーを用いてトークするイベントに参加しました。僕なんかまだ駆け出しだったんで、自分の作品をスライドに写して、自分がこうやって作りましたみたいに話すわけですよ。そうすると、酔っ払った鯉江さんが客席にいて「なんだその提灯坪は!早くしまえ!」とか言って大騒ぎするわけですよ。
そのときには僕はもう鯉江さんっていう人がわかっていて、笑ってそれを受け応えられるぐらいの関係になってたんで、良かったんですけど、周りの人たちがみんなフリーズしちゃって。笑
窯炊きを始めると、参加する作家が交代して薪を焚べるんですけど、「風呂炊きじゃねーんだぞ!もっと焚べろ!」って。笑
塚本
樽見さんは鯉江さんとどんな記憶が?
樽見
僕はそんなにないんですよね。伊集院さんが学生時代に常滑に行って、そのときに鯉江さんと親しくなったみたいで、友人同士なんですよね。沖縄に行ったときに、モニュメントを作るのに、協力という形で、鯉江さんもいらして、そこで茶碗を100個くらい作られました。そのときに初めて鯉江さんのろくろを見て、すごいなって思った記憶があります。渡嘉敷はすごい綺麗な海と砂で、水の透明度が50m下が見えるくらいなんです。そういうところで鯉江さんがブリーフ1枚になって、泳いでいて、砂浜でそのまま寝てて、村の人にどざえもんがあがったんじゃないかなんて言われてました。笑
樽見
そのとき鯉江さんの長男が沖縄国際大学の学生で、そのモニュメントの制作にも関わってくれました。そういう関係でちょっとずつ鯉江さんと、知り合うきっかけになりました。沖縄から帰ってきてからは、たまたま何回か合うような感じで、そんなに仕事を見たりとかはしていないです。
樽見さんの作品
塚本
岩見さんは、きっと益子の焼物屋で一番海外に行ってますよね。海外に行くことでその後の作陶なども変わっていったと思いますが。
岩見
滞在日数は多いかもしれないですね。一番最初に長期滞在するようになったのはカンボジアでした。そのときも鯉江さんからの問い掛けに対しての答えは出ないまま自分で何とかかんとかやりつつ、カンボジアに行ったわけですよね。
岩見
当時は相当ね、僕は孤独を感じながら仕事をしてたんですよ。これは焼物に限った話ではないですけど、例えば売れるっていうことは、人から何か関心を持ってもらって、好んでもらって手に入れて、あるいは誰か評価してくれ人がいて。その評価がないときはものすごく孤独を感じるんだよね。そういう意味でずっと孤独を感じながら、大して売れもしない誰からも評価もされない俺この先どうなるんだろうっていう中でカンボジアのお話いただいていくんですね。
カンボジアではプロジェクトとして現地の子供達に焼物を教えるために行きました。その教える子たちは、9歳くらいから、ろくろ引いてたり、自分の家庭の仕事として作ってたりしていて、ある意味、20歳ぐらいプロフェッショナルなんだけれども、益子焼のような釉薬陶器は一度も体験したことがありませんでした。
釉薬をかけた陶器は手間もかかることから、それが作れるっていうことに対して、何か希望もなかったんじゃないかな。そんなことできるわけないって多分思ってたんだと思う。
僕らは2007年に初めて行って現地調査して、現地の素材の成分分析をして、それを踏まえて2009年にまた行って、登り窯を作りました。
2009年にカンボジアで初めて物を作って、釉薬を作って窯を焚くんですけど、その窯出しのときになって初めて彼、彼女たちの顔がぱあっと光るんですよ。ものすごい食いつきなんですよね。こんなものが自分たちの手で作れるのかっていう、その喜びがものすごく伝わってきて、それと同時に僕らのことを先生っていうふうに認識してくれるようになるんですよね。
岩見
そこから2015年までずっと続けるわけなんですけども、そこで僕の今までやってきてた焼物の仕事の考え方が変わりました。例えば作品で賞を取るとか、物が売れるとか、何かそういったことじゃない場所ですごく役に立ったっていうのが自分の自信になった。
岩見
これまでやってきたことは無駄じゃなかった。それはすごく大きくて、その後の焼き物を続けていくための一番大きなモチベーションになりました。ただ、足かけ9年間そういう事業をやってたので、僕はカンボジアの村に釉薬陶器を作る。種を植えつけるということに全身全霊を傾けてたので、自分の仕事は全然進まなかった。
岩見
カンボジアプロジェクトの9年の間も益子で作品づくりを行いましたが、またカンボジアに行かなければいけないということで作品づくりも分断されて、作品づくりに集中できる期間ではありませんでした。その間に他の作家に置いていかれるかみたいなのもあったんですね。
他の作家たちはどんどん実力をつけていったけれど、それでも自分が役に立っていることがすごく心の支えになって、そういうことがあんまり気にならなくなってきた。
周りの作家が売れてたら、昔はすごく心が苦しくなるような悔しさや陶器市なんかで隣のテントでバンバン売られちゃったりとかすると、ため息ばっかりついてるようなことがなくなった。
岩見
カンボジアのプロジェクトが終了してから、2016年からはデンマークに行くことになりました。それは2011年にお茶碗のイベントが韓国であって、そこでデンマークのアンネメッテという陶器作家と出会うことがきっかけです。
はじめは展覧会に出品をしてみないかと言われて、出品をするだけのつもりだった。ただ出品してオープニングセレモニーにも参加してほしいと言われて、流石にオープニングセレモニーのためだけにわざわざデンマークまで行けないよって話になりました。
そこで、もしデンマークで作陶をさせてくれるんだったら、考えると回答して、デンマークへ行くことになります。
実際にデンマークのボーンホルム島というところに行って仕事をしました。全然その島の情報を知らなかったんですけど、島にはものすごい粘土とか長石だったりとか、自然の窯業原料が素晴らしい環境でした。益子にはないような原料、向こうで作った方がいいものいっぱい作れるんですよ。
そういう原料がたくさんある島でそこから虜になってですけど、そこでね、カンボジアでの経験が役に立ったんです。なぜかと言うと、カンボジアって窯業文化がないので、窯業原料を買う場所がないんですよね。だから、全部自分たちで自然の中から採ってきて、その中から使えるものを抽出して焼き物を作るということを延々にやってたので、それがボーンホルムに行って粘土探したり、長石探したりということにとても役に立ちました。
塚本
2023年の3月にプロジェクトの成果を陶庫で展覧会として表現いただきましたね。
▼ボーンホルム島でのプロジェクトの集大成となる展覧会https://mashiko.com/exhibition/20230311-iwami/
塚本
樽見さんも原土を掘るということですがどこで?
樽見
沖縄で原土を掘る体験をしてから、山形でも山肌をみるようになったりして、工事現場があったらちょっともらってきてテストするみたいな感じです。今は隣の長井市っていうところのお寺の裏山で土を掘らせていただいて作っています。身近な土で作るのと買った土で作るのとでは焼いたときの気分も違って。土がぶちぶちとキレたりして、そういうのも魅力に感じます。
塚本
決して使いやすい土ではないですよね?
樽見
ですね。
樽見
でもその使いやすくないからこそ出てくる。形とか、焼き上がりだと思うんです。僕はその方が好きですね。
樽見さんの作品
塚本
また鯉江さんの話になってしまいますが、益子に来たときには良く車で送りましたけど、山肌が見えると「ちょっと止まれ」って言われて見に行くんですよ。
岩見
工事現場が好きな陶芸家はいますよね。
樽見
そうですね。物によって粘りが足らないときは1割〜3割ぐらい通常の粘土入れると大体使えます。木節っていうちょっと耐火性と粘りが強い土があるんですけど、それを入れる事が多いですね。板物などは単味でやります。
塚本
単味というのは、粘土そのままのことですよね。
樽見
そうですね。
塚本
昔の人は益子でも、良い粘土層だけをみんな持ってっちゃってたから、今はもうそういう土が段々無くなってしまったりしていますね。あとは上に家が建って掘れない粘土層もありますね。昔は自分で取りに行った人は多かったですけど、岩見さんの土は?
岩見
僕はそうやって掘りに行くのと、あと益子の川田さんって人が100%益子で掘った土で粘土を作っているので買っています。
自分で掘った益子の土っていうのは木腐れがすごく入って、木腐れは燃やすと全部穴になるので使えないんです。
それはどうしても取り除かなきゃいけないから、一度、精土屋さんに濾してもらっています。ただ、綺麗過ぎるとつまらないので、濾してもらった土に、砂や少しの木腐れなどを混ぜ直しています。何かそういう変な手間かけて原土に近いものにして使ってるのが僕のメインの粘土ですね。身の回りにあるものを使って行くスタンスかな。
塚本
昔からね、「一土、二焼き、三細工」って焼き物の世界では言われますけど、やっぱり土っていうのは一番重要で、人が行う細工というのは重要だけど、自然が大前提というのが焼き物の世界ですね。岩見さんの場合は薪窯で焚いていますね。今回の展覧会も薪窯20年というサブタイトルです。
岩見
そうですねもう、穴窯を使うようになってから、灯油窯は使わなくなりましたね。
殆ど素焼きで使ってます。
先ほど、「一土、二焼き、三細工」とありましたが、自分の仕事をやってる中で、それは三つ並列だと思うんです。
なんで123っていう順番がついてるかっていうと、まず土が決まらないと焼きも決まらないんですよ。土と焼きが決まらないとやっぱり作りも見えてこない。
良く鯉江さんにも言われたんですよ。「まず土ありき。」これを作るためのこの土というのはやっぱりあるわけで、そういう意味の順番だと思います。
ただ自分の仕事では土も、焼きも、作りも、三位一体なのが、焼物だと思ってる。
岩見さんの薪窯
塚本
樽見さんは焼きは?
樽見
灯油窯です。
塚本
薪窯はあまりやりませんか?
樽見
今はあまり入れないですね。
塚本
今は益子で薪窯といっても、少なくなってしまいましたね。それは東日本大震災が分岐点でした。益子の登り窯や穴窯などの多くが倒壊してしまいました。薪も福島周辺の赤松を使用していたことで、なかなか使いにくくなってしまったこともあると思います。
震災が起こったときにちょうど岩見さんは窯焚きをしていたんですよね?
岩見
ちょうど窯焚きで大焚べという窯の最後の作業をするときでした。薪が窯に入るだけ入れるという作業です。とにかくもう隙間もなく全部、薪で埋めるぐらい入れます。そうすると40分ぐらい、煙突から炎が噴き出した状態で、手がつけられないような状況になるんですけど、その大焚べが終わった途端に震災が起こりました。
煙突から炎が2、3メーター出てる状態で煙突が揺れているんですよね。窯見ると、窯が波打ってるのがわかるんですよ。1300℃を少し超える温度なので、窯自体が柔らかくなってんですよね。焼き物って焼いてる最中柔らかいんですよ。イメージつきにくいかもしれませんが、窯の中で器が変形するようなものは一番高温のときに変形します。その状態はかなり柔らかいんですよ。窯自体も、支えるレンガも焼き物なので、ある程度柔らかくなっていたのですが、何もできないし、もしこれが崩れたら山火事になってその裏山も全部もえてどうしようって頭が真っ白でした。
窯から出る炎
塚本
でも、ちゃんと作品は取れましたよね?
岩見
取れないですよ。何言ってんですかね。笑
全然取れなかったんですよ。4月4日から陶庫で展覧会だったので、そのための作品を焼いていた窯だったんですよ。
覚えてないでしょう?笑
岩見
窯の中で釉薬が解けたまま器がくっついてしまってそのまま品物にはならない状態でした。
状態を見て取れそうなものは、分離させて、綺麗にヤスリで削って、でもそれだけだ傷になるので、灯油窯で焼き直そうと思いました。
ただそのときは、暖を取るために多くの人が灯油を欲していました。そん中にね僕が窯を焚くために買いに行くのが、とても辛かった記憶です。こんなことしてていいのかなと。
当時は益子の作家も余震が怖くて、なかなか窯を焚く人がいませんでした。それで、仕事が再開できない状況で、誰かが再開して、何か町に少しでも活気を取り戻していかないといけないと思っていました。益子が止まったままになっちゃうと思って、余震もバリバリ、計画停電とか言われる中で、何とか焼いて、陶庫で展覧会をやりました。
お客さんは全然来なかったけど、焼き物屋さんからは「やってくれてよかった」と言われました。
塚本
当時は陶器市をやるということは決まっていたけど、何やっていいのかわからなかった記憶ですね。
岩見
陶庫さんもね。バックヤードがみんなひっくり返って、全部めちゃめちゃになってました。復興ボランティアもやりましたね。
塚本
今まで岩見さんと樽見さんの接点があるようでなかったっていうのが、少し驚きですね。
岩見
知ってはいたんだけどね。
樽見
そうですね。
岩見
会えば、お互い話す感じだけど、今回のこのトークをするのに、「樽見くんはいつどうして焼き物を始めようと思ったの?」のみたいな話を、つい何日か前にしました。笑
塚本
今回のギャラリートークで作陶の裏側なども伺った上で、作品を見るとまた違う器の印象になると思います。ぜひ展覧会会場で御覧ください。
本日はありがとうございました。
岩見/樽見
ありがとうございました。